花束みたいな恋をした

中央線の各駅にあるぼろぼろのアパートには必ず鍵がかかっていない部屋があって、なぜかといえば盗まれるようなものがないからだ。
夜になるとそれぞれの部屋の小さな窓辺で峯田和伸麻生久美子が夜光雪を眺めている。
映画に出てくる中央線のアパートには、ベランダがない。外階段もない。一軒もない。
そしてそんな映画のなかで峯田が言っていたのはこんなセリフではない。
“みんなの中にも、きっと福満しげゆきは住んでる。
その福満はきっと言うだろう。「死なせてくれ!殺してくれ!」“

 

ともあれ「花束みたいな〜」前半を観ながら私は以上のセンテンスを思い出していた。
不思議なのは、そんなセンテンスはないし、私には別に麦くん絹ちゃんのような出会いも思い出も彼らのような青春への憧れもないのに胸が苦しかったということだ。
まるで呪術高専の東堂先輩だけど、カルチャーに恥ずかしい気持ちよりも息苦しさが優先されていた。理由はわからない。

 

物語が進むにつれ胸の苦しさは消えていった。召喚された福満は丸くなって眠った。
後半の方がずっと微笑ましく思った。素敵なカップルだという感想。

なぜか?
彼らが(最初から)最後までずっと両思いだったから。
終始口に出さずとも全く同じタイミングで全く同じことを感じていたから。
相手のことを素敵に思うことも、相手に不満を持つことも、相手に別れを決心することも、すべて全く同じタイミングである。
それは「恋」ではないしかといって「愛」ということではない。
ただお互いの自分の魂の片割れに出逢ったということだ。鏡みたいに。
安らぐにせよにせよ悲しむにせよ“そういう相手を持つ“ことは、奇跡的だし、素晴らしいことだと私は思う。
そう思うことに私はロマンを感じたいと思っている。
「奇跡は(映画の中では)起きる」と教えてくれている。

 

別れた二人が過ごした三ヶ月を、私は何より悲しくそして美しい日々のように思った。
飼い猫をどちらが引き取るかのジャンケン、他のどんな描写より二人が大人になってしまった切なさがある。
彼らのおしまいの三ヶ月こそ“あり得るはずだった/あり得たかもしれない/しかしもうあり得ないであろう“二人の日々だからだ。

 

ラストシーンで、一年位前に読んだ本の文章を思い出した。
それは悲しい運命を辿ることになるひと組の夫婦がまだ幸せだった頃に撮影された、彼らの肖像写真についての文章だ。

「この二人が悲劇的に運命づけられていながらも、なおそれとは違った未来への可能性のなかにおいても同時に捉えられているからこそ、彼はこの写真の二人に感動したに違いないのだ。人生の様々な可能性に向かって開かれたままの状態で結晶化している二人の姿に……。」
「この写真から、未来の出来事との連関によって意味づけられてしまうこと(運命としての悲劇)からも、当事者たちの現状認識によって意味付けられていたこと(婚約という幸福)からもこぼれ落ちてしまうような、あり得たかもしれない別の歴史の可能性(「未来における別の幸福」とでも言うべきか)を感じ取ったと思われる。実は彼の言う「想起としての歴史」とは、そのもう一つの別の未来の可能性、つまり果たされなかった革命の可能性を、過去の出来事の片隅に見出し、それを現在へともたらすことと言えよう。」(引用:長谷正人「「想起」としての映像文化史」)

あの“画像“を発見した麦くんは笑っていた。
さよならだけがバッドエンドではない。
ふたりの心が人生が通うことはもうないとしても、奇跡は起こる。少なくとも映画の中では。