ルクス・エテルナ 永遠の光

今日知ったのだけどポリゴンは20年前のあの事件でピカチュウを憎むようになってしまい(ポリゴンショックと名づけられたあの事件の該当カットは実はピカチュウのそれだったから)、その結果ピカチュウの皮をかぶってミミッキュと名乗るようになった…みたいなホントかウソかわからない逸話があるらしい。その逸話がメタ的なものであれ、ポリゴンは哀れなままである。

 


万全で観に行っても体調を壊してしまうのだが、映画が観客に物理的攻撃を仕掛けてくる映画がいくつあるのだろうかと考えると思いつかないしきっとこれからも出てこない。であればやっぱりこの体験は得がたいと思ってしまう。

だけどその物理攻撃を除いてもめちゃくちゃおもしろく、ギャスパーノエの「ワテはこう思いますねん」っていう所信へはその通りだなぁと思わされたし、「ふざけんなよ!」と笑うしかない帰り道までがセットだと思うし、この映画は二度と観ないだろうが次回作も絶対観たい。

 


ギャスパーノエは冒頭のミミッキュの逸話を受けてこの映画を作ったのであろうか?多分そんなわけないけど、絶対にそんなわけないとも言い切れない。そしてもしもそんなわけなかったとしても、ギャスパーノエいや"ギャスパー"の「すべての映画と映画人は作品を商品から芸術にするべきである」という意志とそれに基づき作られたこの映画は、すべての観客を攻撃しながら、あの、"商品"世界で非難の雨にさらされ続けたひとりぼっちのポリゴンを傘に入れてあげたことになる。

バルタザール どこへ行く

「バルタザールギザカワイソス( ;  ; )」というのが感想なのだがバルタザールを虐めていたのは俺たちであった。

 


バルタザールの正体はなんだったのかみたいな思考の逡巡や議論は豊かなことであろうけど、俺は「ロバ」と思うね!!だってロバじゃん!!!

 


ロバだからああいう風に扱われている。

ロバだからああいう風に扱われても周りが何も感じられずに"いられる"んだろう。

マジそもそも俺たちはロバを「ロバなんだから」と思っているんだなぁ。

だけどそれは決して異様なことではない。

区切ってもう一度言うけど、それは、決して、異様なこと、では、ない。

 


ラストシーンで俺はダメ押しのように思った「バルタザールギザカワイソス( ;  ; )」と。

しょこたん語になったのはしょこたんが動物好きであるからだ。しょこたんがのりうつったにすぎない。

ではしょこたんであった俺の正体とはなんだったかと問われれれば「人間」なのです。だから決して異様ではない。

 

https://filmarks.com/movies/32163/reviews/100170088

劇場版鬼滅の刃 無限列車編

えんむが言うところの「夢を見ながら死ねるなんて幸せだよねぇ」というセリフに俺は「確かに〜」と思ったし、少なくともこの映画においては正しいことを言っている。

というより、突き詰めていくとそれがこの映画のテーマであると思います。

 


劇中では夢から脱出する(=現実を生きる)ためには夢の中で自殺をしなければならないが、つまり「死」という一点を中心に現実と夢は対に位置している。そして、"現実を生きる"為には(死への)恐怖が伴う。

 


煉獄さんは夢の人であるところの母の姿を幻視して死ぬが、(広義で)夢を見ながらの彼の最期は笑顔であり、「やりとげた」「守り抜いた」幸せの中で死ぬのだ。

対して、生きながらえた三人は煉獄さんの死を発端として自分たちの無力さ(それはつまり自分たちの現実ということだろう)に絶望して泣く。

えんむが言っていた「夢を見ながら死ねるなんて幸せだよねぇ」は、逆に言えば「生きて現実を見るのは苦しいよね」ということだ。そういう対比になっているのだ。

ということは単なる敵キャラの戯言ではなく、この映画における世界観なのである。

 


付け加えると、あかざが煉獄を鬼に誘うとき「人間は老いるから死ぬからダメなのだ」という。老いも怪我も死もない自分は幸せであるからお前もそうなってみようよという論旨であり、さっき書いた「生きて現実を見るのは苦しいよね」に対して、えんむとは異なるアプローチで提言している。

 


煉獄さんは「人生は限られているから美しい」という返答をする。その際彼は「おまえとは価値観が違う」という言葉を使う。

 


なんで鬼滅の刃ってこんなにヒットしてんの?とずっと思っていたのだが、「観てる俺らの人生もメチャ苦しいから」っていうのもあるのかもしれないですね。であるならば、この映画は無意識下で「あるある系」なのかもしれない。

 


※エンドロールの演出だけはマジで蛇足じゃないですか?

黒バックに白字を淡々と出すだけで、通例そのようになっているから だけではなく「喪」の意味が生まれる気もするし、あんなことしなくても観客はあの時間全員、煉獄さんの顔を思い出しているだろ。

大切な人の姿は現実に目に見えなくても心の中では視えるのだと、そういう話だったじゃないか。

 

https://filmarks.com/movies/86962/reviews/100080172

「複製」

新作短編映画「複製」が、東京都「アートにエールを!」にて公開されました。

こちらから視聴できます。

 

「複製」

【出演】西村理佐/東海林陽助/工藤ちゃん/るんげ
【音楽】肉汁サイドストーリー

【監督・脚本】澁谷桂一

さよならみどりちゃん

映画…というか映画にのみならず映像および映像を視聴するという行為がテクノロジーの発展に伴って急速に獲得したものは「距離(の解消)」である。それは物理的な距離のみならず時間的な隔たりのこともそうだ。


2020年8月20日21時に"女子のあこがれ"の一時代を築き上げた白石麻衣やんがYouTubeアカウントを開設しライブ配信をした。ファンにとってあこがれ、言い換えれば到達できない存在でしかなかった白石麻衣が/それまでは画面の向こうのスタジオや、ステージや、握手会の行われる会場という隔たれた場所にしかいなかった白石麻衣が、YouTubeライブ配信というそこらへんの女子高生でも日常的に行なっていることをしていたのだ。

ライブ配信は、そのコンテンツにおける卑近さによる物理(感覚)的な距離の接近のみならず、時間的な距離においても"ライブ"の文字通りに視聴者に接近する。

 
ライブ配信を例にとったが、冒頭で述べたテクノロジーの発展に伴う物理的/時間的な距離の接近は映画にもその影響を及ぼしているだろう。何故ならばかつて映画のみを指していた"映像"というものは、テレビやらインターネット動画やらへと枝分かれし、そこでそれぞれの媒体に併せた印象や意味合いを持ち、そしてそれら印象や意味合いが全ての形態に還元するからだ。

これは現代を生きる市井の若者を描いた(それはつまり"今を描いた")映画を観ればなんとなく分かることだろう。ムードとして。

とにかく現代の映像は、"今ここ"であることこそが重要とみなされてるのだ。

 
しかし皮肉なことだが技術によって"今"を描くことは、現世の複製でしかない映画(映像)の本質から遠のくこととなっている。

映画を俺たちが観ているとき、画面に映っている人も、風景も、出来事も、すべては「かつてあった」ものであり裏を返せば「今ここにはない」ものである。もっと言えば、映画は虚像だ。実際に撮影されたものであれど、たとえば星野真里はヨウコではない。星野真里だ。画面の外にこそ、そこに映されているものの本当の姿があって、俺たちは画面に没入するふりをして、本当は画面の外を認識し続けている。それが映画を観る俺たちの姿だ。

 


さよならみどりちゃん」で全てのシーンにおいて画面に映っているモノは、映っていないモノを示唆している。それは場所とも時間とも、そして人とも言える。

キャラクターたちはその場にいながらして常に、「ここではない場所」のことや「今ではない時間」のことや「今ここ にいない者」を夢想する。ここではない場所も今ではない時間も今ここにいない者も、世界にはたしかに存在するはずなのに、同時にそこには絶対的な"到達の不可能"がある。ヨウコが"みどりちゃんとユタカ"(場であって時間であって人)についに遭遇し全速力で追いかけてるもたどり着けないというシーンにそれは象徴される。

 
その次のシーンで到達の不可能を身をもって知ったヨウコがアテもなく(アテは闇に消えたのだから)彷徨い歩き続けた果てにゆたかに出会う。みどりちゃんの影は残像として俺たちの中にだけはあるが、ヨウコとゆたかは、ここで遂に対峙をする。

そこで行われるセックスを、"今・ここ・今ここにいる相手"と描くために、まんをじしての長回し撮影が採用されているというのは本当に見事で的確なこったろう。

 
そしてこのシーンを以て、映画はそこに映されていないことを描くことに決着し、準じてキャラクターも今・ここ・今ここにいる相手を見つめることになる。

しかし映画は終わらない。今度はマゾヒステリックかつサディスティックな問いを投げかける。

今・ここ・今ここにいる相手、ならば、手を伸ばせば手が届くのか?と。

 
ヨウコが恋の結末、つまり彼女がゆたかのヘラヘラに合わせてヘラヘラと避けていた今・ここ・今ここにいる相手に向き合うその一方で、未だ"到達の不可能"ゾーンに囚われている者がいる。

それは誰であろう、俺たち観客である。

同時性を拒絶するこの映画が築き上げたシステムに、映画およびキャラクターは決着するも、観客は依然として過去かつ虚像を観続けているのだ。


俺たちは思う。

映画とは結局そういうものか。俺たちだけは手を伸ばすことができない。いやそれでいいんだけどさ。

俺たち無力な観客はそんなよるべなき諦めを、こちらに背を向けたままのゆたかに向けたヨウコの視線に重ねる。だけどヨウコは"今"を生きてるじゃん!とも思いつつ。

古厩智之のバカ!ヤリ逃げ!ゆたか!

どうすりゃいいんだよ!

映画を観続ければいいのだ。

果たして哀れな俺たちが目にするこの映画のラストシーンは恋の顛末ではない。

ヨウコが避け続けていたもう一つのことで終わる。そしてこれも、長回しで。

 
映画が終わる。

エンドロールで流れるのはユーミンの「14番目の月」である。この歌の歌詞は、歌がヨウコに向けられているようでいて、映画が観客に向けて歌っていることでもある。

「14番目の月」は"予感"についての歌だ。
予感とは常に未来に向いている。

映画の本質である過去性に絶望して、テクノロジーで同時性を希求する必要はないのだ。

映画は時として俺たちが伸ばすことを諦めた手をあちらから伸ばしている。

そして俺たちが映画を観終えたあとに目にする画面の外側とは映画鑑賞という時間を踏まえた未来だ。「映画とは結局」とはここで口にするべきだった。

 
映画とは結局そういうものか。

いいもんですねぇ!とおれは思った。

 

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武士道シックスティーン

そもそも論だが、竹の棒で他人を思いっきりぶっ叩くなんてことは倫理的におかしい行為なんじゃないか?もっと言えば剣道における「ぶっ叩く」というのは表層であって、根にあるのは「斬る」行為つまり殺人の手段だ。他人を斬っていいわけなくない?

ちょんまげと共に消滅した殺人術が斬る行為から叩く行為にダウングレードして残存したのが剣道であり、そこについて①なぜ生き残っているのか?②どうやって生き残っているのか?ということを「知らんけど」という語を準備してから考えると、①は形がなくなっても動物として消えない本能としての暴力欲求(現代的には狂気だろう)に因るのであり、②は武道の"道"の部分、要は行為を通して自己を研鑽する為に様式に重点を置いたことに因るんじゃないか。知らんけど。

 
2人の主人公の設定・環境は物語におけるキャラクター作りの手本のように鏡合わせになっているが、2人に共通しているのは「なぜか剣道がめちゃくちゃ好き」ということである。

"なぜか"なもんだから、当たり前のように2人ともその言葉にぶち当たって悩むことになるけど、それぞれの理由はともあれ、2人の剣道への姿勢・というか態度は、それぞれ先程述べた剣道が現代で残存している①と②をそれぞれ担っている。西荻が①で礒山が②だ。①と②は共存してはじめて成立するので、ひとつずつしか持たない2人は、同じものを好きでありながらお互いの態度に畏怖を覚える。

それでもお互いがお互いの態度に敬意や羨望を抱いて視線を外さないことこそ、剣道が現代まで生き残っている証明のように思う。

制服のまま対峙する終盤のシーン、あれは完全に死合であり("防具"をつけないわけだし)、それでいて単なる喧嘩・叩き合いにならないのは剣道の様式に則っているからだ。この作品のタイトルに冠されているのが剣道ではなく武士道なのは、こういった相反するような"在り方"が剣道にのみならず武士道に通じているからなんだろう。

 
剣道を通じて武士道を見つめる二人の姿を、画面を通じて見つめる観客。

この映画が教科書のように視線を強調し(セリフまでも)ているのは、映画の内であろうが外であろうが、見つめるという行為はおんなじことなんですよと、そういう風に作られているからなのかもしれませんね。

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