2021年3月

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 去年の今頃は新型コロナが俺のようなのんきクンでもさすがに無視できないくらいの猛威になり始めた頃であり、誰とも会わない日々が始まる予感がしていた。

 リモート飲みという流行の中で普段酒なんか全然飲まない俺も缶ビールをひと缶買ってパソコンの前に置いて、誰かに誘われるのを待っていた。

 あれから酒方面ではいろんなことがあって、今でもひとりでは呑まないけれど、それでもずいぶん酒を飲む量が増えた。呑む機会が増えたということだ。即真っ赤になるのも減ったんじゃないかと思っている。

 三月のある日に、はす向かいのアパートが取り壊されはじめた。毎日少しずつしかし確実に取り壊されて、更地になった。住んでいた人の顔をひとりも知らないが、彼らはどこへ解散してしまったのだろうかということをよく思う。

 

 緊急事態宣言もあけたからとなんとなく近所の行きつけの居酒屋でたまちゃん(仮名)と梨バックさん(R.N)と一、二杯呑んで、そのままなんとなく俺の家で呑んだ。もう本当に良い加減大人になってるはずなのにたまちゃん(仮名)が恋の話をしたがって、恋の話とかをした。それはやるとかやらないとかじゃなくて、ポケットからキュンですみたいなことについて。
 俺は何年ぶりかでかつて好きだった年上の女との顛末を話した。何年ぶりかで話しながら、顛末をきちんと話せる自分に驚いて、そしてそれでもこぼれ落ちているエピソードがある感覚にめちゃめちゃな寂しさをおぼえた。
 ひととおり聞き終えた2個の飲酒眼鏡たちは「我々はたぶんその人のことあんまり好きじゃないな」と言った。この話の顛末を聞いたほとんど全員がそう言うのだが、その言葉を聞くのも本当に懐かしかった。
 なんの拍子か忘れたけど俺が何年も昔、演劇公演の時に入場特典にするために作った音楽をいくつか、三人で聴いたりする時間もあった。2人はすごく褒めてくれた。俺は嬉しさが少しで、残りは懐かしさでいっぱいだった。

 夜も更けて2人の帰路を送った。梨バック(R.N)とは駅までの途中の道で別れ、たまちゃん(仮名)をそのまま駅まで送った。毎度のことだけど大量飲酒でフラフラのたまちゃん(仮名)の千鳥足に「お水買いなよ!」と呼びかけると「お水買います」と答え千鳥足はフラフラ歩いていった。
その後ろ姿を眺めていたら、なぜかとっても心ぼそくなった。

 引き返す家までの道で「vampurity」を聴いた。大学生の時を思い出した。そして関係ないけど、たまちゃん(仮名)が帰り道で事故なんかに遭って死んじゃったら俺どうしようと思った。悲しくて涙がほっぺの裏まで込み上げた。
堪えつつ歩いて歩いて、はす向かいのアパート跡地を横切った時、たまちゃん(仮)が部屋で「見つめていたい」をかけながらしていた話を思い出した。
「何日か前、ポカポカ陽気の昼間の部屋でこの曲を聴きながらたばこを喫ってたら突然涙が出てきちゃったんです。なんだか自分の周りの人たちが、みんな何処かへ引っ越しちゃったんじゃないかって気分になってしまって、すっごく寂しくなっちゃったんです。」

夢2021.3.21

本官の職場に石井とチェル(野中美希さん)が来場した。チェル(野中美希さん)は本官にチョコをくれた。本官は同僚に「いいのかな?問題になるかな?」と興奮して言った。
石井は6年生の時に着ていたのと同じパーカーを着ていた。本官は同僚に「6年生の時もおんなじやつを着ていたんだ」と言った。

館内にはフィッシュマンズの「ピアノ」が流れはじめた。
どういうチョイスなんだろうと思ってから、ごった返す人の中で石井が立っていた方を見やると、彼女はまだそこにぼんやり立っていた。本官は手を振った。「おーい、おーい」
石井は本官に気づいたようだったけど、手を振り返すでもなく、少し不思議そうに本官を見ていた。
本官は気づく。彼女は小学6年生の彼女なのだ。本官と彼女の時は断絶され、再び接続されたのだ。
起きると音楽が流れていた。

 

諦めもせずに眠りについた
貴方のもとに忍び寄ってくる
ピアノがねぇ呼んでるんだよ
さみしそうな顔で
音楽が夢の中まで追い続けてくる

2021年2月

 「いつでも引越しできるように」をスローガンに、あらゆるものを処分する日々が続いている。
 俺は仕事中に読書をする──というかもはや仕事中しかまとまった読書の時間を取ってなくてそれは改善していきたいのだけど──ので、それ用の本は残しながら、たとえば漫画はkindleで購入できるもの、もう使うことがなさそうな機材なんかも断捨離している。

 ときどき駅前の本屋に行く。
すぐに買うこともないけど、ウロウロして立ち読みをし、気になったものはブクログにメモしていく。
昨日それをやっていたら本屋のたまちゃん(仮名)と#ほんと部屋のメンバーに恵まれたよねさんに「あれっこんにちは」と話しかけられ、先日彼らがうちに来たときに忘れていった日本酒はまだあるかと問われたのであると答えると、それでは仕事が終わったら行きますということになった。
やって来たたまちゃん(仮名)と#ほんと部屋のメンバーに恵まれたよねさんと、神経衰弱、七並べ、インディアンポーカー(言葉狩りのやつ)をやって、寝た。
その日も雨が降っていたが、朝になっても雨が降っていた。駅まで送りながらパン屋で各々パンを買って解散した。そうしている間、売りに出した大切な漫画が人知れず7000円で売れていた。

亀田梨紗写真集

 被写体の力、というものは、あって、しかもそれは一定量撮影者の個性に左右されない。
どんな人がどんなカメラで撮ってもどんな演出しても、揺らがないものがあるということだ。
撮影者を否定しているわけではない。撮影者の個性とはその先に枝分かれするものだ。

 

 かめりささんの写真集を買った。
 なんか最近SNSのタイムラインでかめりささんの写真を目にすることが多くて、そのどれもに、写真の良し悪しとはまた別の、一言では言いづらいエネルギーを感じていた。都度、これはなんだろう?と思っていた。それらを撮影した人は一人ではなかったのに、受像したエネルギーはどれも同様だったからだ。
 エネルギーは渦を巻いていた。ちょうど絵の具を水の入ったコップに垂らしたときのようなイメージをしていた。

 そして写真集を買った。知り合いの写真集を購入するなんて初めてだった。照れ屋のおれは本来そういうおれではない。
掲載されていた写真はおれがSNSで見ていたのとはまた違うタッチだったし、SNSで見ていたのとは少し趣が異なっていた。
しかしながら、おれはまた同様の渦を感じた。

 少し調べてみたところ、この写真集は一日や二日でエイヤッと撮影されたものではないっぽかった。
雰囲気の異なる幾つかの、大まかに言えば章があるのはそういうわけかと納得した。
 しかしながら、おれはどれもに同様の渦を感じた。

 これはなんなのだろうと、あまり真剣になりすぎないよう気をつけながら、たとえば木耳とご飯を出汁で炊き込んだやつを食べたり、木耳と卵とキャベツを炒めたやつを食べたり、セブンイレブンの見慣れない飲み物をタバドリにして喫煙したり、シン・ウルトラマンのソフビを買ったり、シン・ウルトラマンのソフビを窓から射し込む夕日に照らしてDP2sで写真に撮ったり、隣町の図書館でアンゲラ・ゾンマー・ボーデンブルグの「ちびっこ吸血鬼」の本を三冊借りたり、それを読みながらドトールで昼寝したり、「くるぐる使い」を読み終えたり、「花束みたいな恋をした」を観たり、穂波さんに駅前でばったり会って彼の家で朝まで酒を呑みながらなぞなぞをしたり、穂波さんに駅前でばったり会っておれの家で朝まで酒を呑みながらトランプをしたり、澁谷ツタヤで「ウルトラセブン」を借りてきて観たり、スパルタローカルズ「セコンドファンファーレ」「悲しい耳鳴り」を聴いたり、スパルタローカルズの解散ライブの映像を観たり、LIGHTERS「Don’t worry」を聴いたり、Jack Stauder「Pop Food」を聴いたり、Workshopを聴いたり、木村カエラ「TREE CLIMBERS」を聴いたり、志ん朝の「茶釜」「高田馬場」「化け物使い」「百年目」「そば清」を聴いたり、The Marias「I Don’t Know You」を聴いたところで、“この感じだ“と思った。そこで捉えた感じがあった。
 英語なので歌詞は読んでみても虫食いのようにしかわからなかった。翻訳をする気にはならなかった。意味が分かってしまうとしらけることもある。その予感が働いた。
 “情報“なんかどうでもいいことがある。正体を説明できない方がいいこともある。マリアズのこともあんまりおれは良く知らない。ボーカルが女の子ということしかわからない。どこの国のバンドなのかも知らない。英語圏なんだろうけど。もろもろをすっ飛ばして、これが俺が写真集から感じたムードでは、あった。
 そして、エネルギーの正体を考えることに終止符を打つために、この文章冒頭のことを書いた。あんなことは元から誰もが知っていて、そしてかめりささんという被写体を撮影したことがある人なら誰でも感じているであろう要素の一つに過ぎない。敗北だ。
 だから書いてみたところでエネルギーの正体のことは依然おれの中で、イメージの域を出ない。出なくていい。なんだかこんな風に書いていること何もかも野暮に思えてきた。敗北だ。だけどそれでいいのかもしれない。
おれもかめりささんの写真撮ってみたいです。俯き白旗を振りながら申し上げます。

 

There’s weight in my bed
Where you laid and you said
I don’t know you
I don’t know you
If we tried to retrace
Would it show on my face
And remind you
I don’t mind you
But babe this isn’t right
But if you’d rather dry your eyes then honestly I’m fine
With keeping my trust in you
And making up if we tried
I’m hardly unsatisfied

 

youtu.be

花束みたいな恋をした

中央線の各駅にあるぼろぼろのアパートには必ず鍵がかかっていない部屋があって、なぜかといえば盗まれるようなものがないからだ。
夜になるとそれぞれの部屋の小さな窓辺で峯田和伸麻生久美子が夜光雪を眺めている。
映画に出てくる中央線のアパートには、ベランダがない。外階段もない。一軒もない。
そしてそんな映画のなかで峯田が言っていたのはこんなセリフではない。
“みんなの中にも、きっと福満しげゆきは住んでる。
その福満はきっと言うだろう。「死なせてくれ!殺してくれ!」“

 

ともあれ「花束みたいな〜」前半を観ながら私は以上のセンテンスを思い出していた。
不思議なのは、そんなセンテンスはないし、私には別に麦くん絹ちゃんのような出会いも思い出も彼らのような青春への憧れもないのに胸が苦しかったということだ。
まるで呪術高専の東堂先輩だけど、カルチャーに恥ずかしい気持ちよりも息苦しさが優先されていた。理由はわからない。

 

物語が進むにつれ胸の苦しさは消えていった。召喚された福満は丸くなって眠った。
後半の方がずっと微笑ましく思った。素敵なカップルだという感想。

なぜか?
彼らが(最初から)最後までずっと両思いだったから。
終始口に出さずとも全く同じタイミングで全く同じことを感じていたから。
相手のことを素敵に思うことも、相手に不満を持つことも、相手に別れを決心することも、すべて全く同じタイミングである。
それは「恋」ではないしかといって「愛」ということではない。
ただお互いの自分の魂の片割れに出逢ったということだ。鏡みたいに。
安らぐにせよにせよ悲しむにせよ“そういう相手を持つ“ことは、奇跡的だし、素晴らしいことだと私は思う。
そう思うことに私はロマンを感じたいと思っている。
「奇跡は(映画の中では)起きる」と教えてくれている。

 

別れた二人が過ごした三ヶ月を、私は何より悲しくそして美しい日々のように思った。
飼い猫をどちらが引き取るかのジャンケン、他のどんな描写より二人が大人になってしまった切なさがある。
彼らのおしまいの三ヶ月こそ“あり得るはずだった/あり得たかもしれない/しかしもうあり得ないであろう“二人の日々だからだ。

 

ラストシーンで、一年位前に読んだ本の文章を思い出した。
それは悲しい運命を辿ることになるひと組の夫婦がまだ幸せだった頃に撮影された、彼らの肖像写真についての文章だ。

「この二人が悲劇的に運命づけられていながらも、なおそれとは違った未来への可能性のなかにおいても同時に捉えられているからこそ、彼はこの写真の二人に感動したに違いないのだ。人生の様々な可能性に向かって開かれたままの状態で結晶化している二人の姿に……。」
「この写真から、未来の出来事との連関によって意味づけられてしまうこと(運命としての悲劇)からも、当事者たちの現状認識によって意味付けられていたこと(婚約という幸福)からもこぼれ落ちてしまうような、あり得たかもしれない別の歴史の可能性(「未来における別の幸福」とでも言うべきか)を感じ取ったと思われる。実は彼の言う「想起としての歴史」とは、そのもう一つの別の未来の可能性、つまり果たされなかった革命の可能性を、過去の出来事の片隅に見出し、それを現在へともたらすことと言えよう。」(引用:長谷正人「「想起」としての映像文化史」)

あの“画像“を発見した麦くんは笑っていた。
さよならだけがバッドエンドではない。
ふたりの心が人生が通うことはもうないとしても、奇跡は起こる。少なくとも映画の中では。

排気口ワークショップ、前/後

 

 排気口(劇団の名前)のワークショップに呼んで貰ったので行った。楽しかった。主催した菊地穂波──以下、人称代名詞を「Dear(ディア)」と表すことにしますが──におかれましては三十分尺の新作を毎月一本計三本も書き下ろす作業は、胃の内容物を全て出し尽くしたのに吐瀉し続けた果てにあふれた涙をおよびじゃねえと叩かれた末にようやく血を吐くような作業だったらしい。直筆で書かれた彼の台本はインクの代わりに比喩でなく血で書かれていて私は思わず「血書じゃん」と言ったけど、それでも笑う気にはならなかった。Dearは笑ってほしかったのかもしれないが。Dearは笑っていたが。
 ワークショップの内容に関しては、冒頭に書いた「楽しかった」という感想以外のことは全部忘れてしまった。Dear、かなしいきもちかい?
 だけど(尋ねないけど)Dearだってそうだろ?
 さて、ワークショップ本編のことは、だからもう語らない。語れない。私がするのはワークショップの前と後の話だ。

 

◯前の話

 Dearの”穂波”という名前を初めて目にしたとき、私は素敵だなと思った。
 その名前を知ってから本人に直接会うまでにはガムのような時間の隔りがあった。Dearには、私より先に私の友達の杉浦が逢った。
 そのことを私に語る際、杉浦は開口一番「穂波っていう名前だから女の子だと思っていたのに男だった」と私にブーたれた。私はそうなんだと思ったがそうなんだとしか思わなかった。

 私が驚いたのはその後”穂波”にまんをじして直接遭遇したときのことだ。だって、どう見ても女の子だったからだ。水色の長袖シャツに膝丈のスカート、長髪を左右で三つ編みにし、前髪は真ん中で分けられている。ほそいフレームの眼鏡の奥で笑っていた。杉浦もその場にいたから、私は風説した杉浦をゲンコで断罪しようかとも思ったが、初対面の穂波さんの手前、やめておいた。

 そして、Dearもまた、私の風貌をみて驚いていた。
「シブヤさんって、女性だったんですか?」と言いたげな顔をしていた。私はこのての問いを、出会う人間の全員にされる。辟易していないと言えば嘘になるけれども、「澁谷桂一」なんて名乗っている手前、甘受する覚悟もまたとっくに終えていた。
 しかして、Dearは問わなかった。ひとこと、「なるほど」と言った。そして。
「僕はキクチホナミです。はじめまして。」と言った。一人称が僕だった。 なぜか、その瞬間に、いろいろなことをすべて了解できた。

 とどのつまり、私も、Dearも、どんな名前を名乗るのかなんてどうでもいいのだ。

 野暮なことを申し上げるが「名前」という点においてLGBTの問題は我々に一切関わらない。そして我々もまた、この点でLGBT問題に議論や主張を提出しない。 私も、Dearも、自分でしかないのだ。 私は澁谷桂一でしかなく、Dearは菊地穂波でしかなかった。我々はそのようにして出逢った。

 キクチホナミのキクチは菊”池”ではなく菊”地”と書くが、その名はしばしば菊”池”と誤字される。しかし。いつからか私は、もしかして誤字ではないのかも知れないと思うようになった。つまり、”わざと”菊池とされているのではないかということだ。

 私がこの考えに至ったのは、Dearが件のワークショップ台本に苦労している姿を見るようになってからだ。執筆期間、Dearは何度も「もうない、もうない、もうない、もうない、もう書けない、もう書けない、もう枯れた、もう枯れた、もう枯れた、もう枯れた」と繰り返していた。

 先述したようにDearはワークショップ台本にあたって胃の内容物を全て出し尽くしたあとも吐瀉をし続け、果てにあふれた涙をおよびじゃねえと叩かれ、血を吐くことになる。Dearは菊”地”を名乗ることで文字通り枯渇を訴え続けているのではないだろうか。一方でDearを菊”池”と呼ぶ諸氏もまた、文字通り体の中の潤沢を信用しているのではないか。

 さらに「信用」という言葉を「強要」という言葉に置き換えてみると、別の根拠が浮かび上がる。”菊池”と”菊地”の違いというのは漢字の「へん」であるわけだが、彼の主張はつちへんである。つちへんというのは見たまま土のことだ。「土」とは何か。死体がバクテリアに分解された姿だ。Dearは死にたがっている。死という比喩を展開すればそこには、もう動きたくないという手紙がひろがる。

 対して諸氏がDearに求める「へん」というのはさんずいである。因数分解された3ずいを展開すると(ずい+ずい+ずい)だ。「ずい」とは何かといえば推進を表す際に用いられる擬音である。動きたくないというDearに、周りは動くことを強要していることがわかる。

 さて、私はDearへ対する諸氏の言語下の要求を糾弾するつもりは毛頭ない。なぜかといえばキクチホナミは結局書けたからだ。枯れたと言っていたが血が体に残っていたのだ。できないやつに期待するのは酷だができるやつがやらないのは怠慢であると、かつて中学時代の先生が言っていた。Dearが悪いということでもない。できないとおもっていたができた。それだけだ。万歳である。

 

 

◯後の話

 私は、七日おきに二日開催された十二月のワークショップに両日参加した。

 その間、私はDearに会わなかった。連れ立ってお酒を呑むこともなかった。だから私は一人で酒を飲んでいたし、Dearもきっとそうだろうと思う。だけどあまりにさみしくて、私はある日──それはワークショップ二日目の前日の夜だったが──私は電話でエッチメートに電話をかけた。
「どうした?」と、もしもしも無しにエッチメートは電話に出た。
「さみしいの。」私は既に酔っていた。

「さみしいから、なんだ。」エッチメートは低い声をしている。

「来て。今すぐ来て。今すぐ会いたいの。」時計の針は十一時を指していた。

「いやだよ、めんどくさい。こんな時間に突然呼び出すなんて何かあったんじゃないのか?」

「ない。なにもない。なにか理由がないといけないの?」
「いけないね。ズポシがしたいならそれでもいいから、とにかく何か理由を挙げてくれないと。」
「ズポシがしたい」

「ズポシって言うけどね、一回じゃ終わらないだろう」エッチメートが嗤った。

「エチスがしたい」私はうなだれて言った。

「最初からそう言えばいいんだ。手間取らせやがって。だけどね、いやだよ。」

「ひどい!!」涙が出た。自分でびっくりした。

「おまえの求めるエチスは異常だ。行為の最中にお互い別の人格を降霊させて複数でまぐわう気分になりたいなんて、そんなの気が変になっているとしか思えないんだよ。」

「なぜそんなことを言うの?」
「ともあれ、そんな気分じゃないんだ。気変にわざわざ会うために自転車をこぐ体力がない。」

 さよなら、と言い残してエッチメートは電話を切った。そしてもう何度かけ直しても出てくれなかった。

 そういう気分を引きずっていたことも、私がワークショップの内容を思い出せない一員なのかもしれない。わからないが。
 ワークショップ二日目が終わった後、私とDearは酒を呑んだ。Dearと杯を交わすのは本当に久しぶりだと思った。

 私たちはいろいろな話をした。だけどいろいろな話だったものだから、どんなことを話したか、その殆どを私は憶えていない。日本酒を飲んだ。

 ふと、「シブヤさん、元気ないですね」とDearが言った。

そうかなあ、と私は笑って、それから。

「ねえ、私って、気変、つまりその──気が狂っていると思う?」

Dearは丸い眼鏡の奥で目を丸くしてから、 「ぜんぜんそんなことないですよ」そう言っておちょこで唇をぬらし笑った。

「ほんと?」

「本当です。僕は出逢ってから、シブヤさんのことをキヘンだなんて思ったことないですよ。っていうか、”キヘン”ってなんですか?そんな言葉あります?」

「わからない。でも、そう言われたんだあ・・・」

「そいつぶっ飛ばしてやりますよ。キヘンなんて、そんなの無いですよ。」

「そう・・・ありがとう。ところで突然なんだけど、私の性癖を告白して良い?」

「もちろん。」

「私は、ズポシの最中にお互い別の人格を降霊させて複数でまぐわう気分になるのが好きなんだ。」

 

「ちょっと待って下さいよ。」Dearがおちょこを置いた。

「なんなんですかそれって。」私は覚悟をした。
「マジ最高じゃないですか!!」

 

 しばらくして、排気口のnoteに三ヶ月排気口ワークショップが終わった話。|排気口|noteがアップロードされた。
そこには以下のような記述があった。

 

 改めて参加者の皆さん、ありがとうございました。そして波止場石郷愁氏と澁谷圭一氏の両氏にも感謝。ありがとうございました。

 

私の名前の”桂”一とすべきところが、”圭”一になっていた。
Dearが書いた文章だと、わかった。
 やさしい人間だ。私は先ほど、「私は澁谷桂一でしかなく、Dearは菊地穂波でしかなかった。」と書いたが、どうやらそういうわけでもないのかもしれない。しかし、

 

私も、Dearも、自分でしかないのだ。
それは変わらない。むしろ変わらない。

 

https://youtu.be/ZrOr06CMZv0

gekidanU家公演『With Home』「転がって若草」

 震える膝で最初に申し上げますと、感想とはつまり、対象を自分がどのように見えたか/どのように思ったか?なので、作者の意図を汲んでいるかどうかは分かりません。

わざわざこんなことを前置きするのは、作者の木村美月さん、演出のヒガシナオキさんの描きたい(伝えたい)テーマをわたしがどのくらい"読み解いたか"という点にわたしはわたしが心許なく、尚且つ「まぁそんなんどうでもいいと思う、弁論じゃないし」という、創作を鑑賞することそのものへの基本姿勢があるからです。

 


かなり冒頭から「これはシャレにならんのでは?」と思っていたがいやいやすごすぎる!!!!!!!!!!!!!!!!面白すぎる!!!!!!!!

 記憶力が少なく、文章をまとめる力も少ないので、以下、羅列の形式をとらせていただきます。力不足と根気の無さが情けないです。


・食事当番の若草さんが食事当番を忘れ、やれやれと呆れながら残る三人は「昨日の鍋」にちょい足ししたものを食べるわけだが、わたしはその弛緩した光景を見ながらかなり感動していた。端的だったから。

彼らは、「望んでない昨日の鍋をやれやれと食べて腹を満たす」というキャラクターなのだ。

その、「満たされないものを(無意識的に)甘受してむりやり満たす」という行為が、共同体を示すアクションを超えて、彼らの現状を、環境を、現状と環境の原因たる人間性を表している。ズバリな光景だ。

 


・若草さんを除く三人のうち、さつきとさえはテーブルで食事をするが、ゆうこは立ったままだ。

ゆうこはそうだ。ゆうこはそうだーー!!!と思った。

後ほど言及されるようにゆうこは「やなせ屋」を回しているのだ。そして彼女だけがなにがしかを執筆するのではなく、結婚に代表される「生活」を当面希求している。彼女は書生として脱落しているのだ。

皆がそれぞれ食事する中、自分の執筆をする中、ゆうこはポン酢をもらいに行き、食洗をする。

つまりあのテーブルは「書生」を表している。

だから、若草さんもテーブルにつくものの、彼は食事の途中でたばこを吸いに隔離空間に行ってしまう。そのアクションで「やなせ屋の書生」から別の場所に行く存在であることは象徴されている。そしてあのテーブルで食事を再開しない。

 


・若草さんがしばしば向かう隔離空間というのは、彼があの家の中で異物として存在しまたそのように扱われていることの象徴だけど、それよりも梯子だ!!!!梯子がかかっていることが凄い。言い換えれば、"隔離空間に梯子があってその先に部屋がある"という舞台を物語であのように活かしていることが凄い。

若草さんは執筆に際し(おそらくあの梯子の先に若草さんの部屋があるのだろう)、梯子を上る。そして時々、残りの三人のいるエリアに降りてくる。降りる若草さんはいつもおそるおそるである。そのおそるおそるさや、おどおどした態度の袂にあるのが若草さんという人間の残酷性であり、そこに他の三人が気付いているのか気付いていないのか曖昧な感じに描いているというのが作者の残虐性だ。

 


・登場人物たちは時々それぞれの理由で舞台から退室するが、さつきが退室する理由が「洗濯機を見に行く」なのが最高だった。

洗濯機とは、機内にて衣類がグルグル回る。さつきってそういう人だろう。

 


・ラストシーン、部屋から出て行く若草さんはあの光さす部屋で最後にたばこを吸う。

彼がたばこを取り出した時、おれは「たばこを吸うかと思いきや吸わないで出て行く」んだと思った。しかして彼はたばこを吸う。

あれ?と思ったが、彼は!二度ほど煙を吐き出して去ったのだ。おれはアッ!と感動した。彼が煙を吐き出す姿が、さながら出航する船のように見えたからです。

そのように見えたのです!!!!!!

 
冒頭にも批判に先んじて書いたとおり、おれは"そのように見えた"ことこそが重要だと思うし、"そのように見える/思える"ことこそが創作の意義とおれはします。

そして、"そのように見える/思える"作品がいったいいくつありましょうかという話です。

感想なんで推敲もしません。

なんだか情けなさも苛烈し、ヤケぱちな気持ちになってきました。

 

とにかく、本当に素晴らしかった。ありがとうございました…。